昭和45年11月13日 十三日会の御教話
(出だし聞き取り出来ず)
というてその事の不思議さを話したんです。結局は神様はもう絶えず氏子信心しておかげを受けて呉れよという、そういう神様の声というものは響き通しに響いて居るのだと。神様のそういう働き、神様のおかげというのはもう何時もそういうおかげが私共の身近に流れて来て居るんだ。それをいまいう私の心でキャッチするのだろうと言う事になったんです。ね、あのう片島センという先生に神様が仰られたと。
「世界中の氏子に話がしてみたい」と天地の親神様が仰った。世界中の氏子にどうぞ幸せになって呉れよという、いわば話しかけをなさって居られるんだけれども、聞く耳を持たんからせんに及ばんと仰る。だからその聞く耳とは何かというと、やはり聞く心なんです。自分の心の調子というものがです、その神の声をキャッチするのである。そしてそれは私の教養であったり、私のまあ頭脳の程度といった様なものでキャッチする。
だからいわゆるあの「松の木小唄」というですかね、松の木小唄の文句のところで頂く。私のその程度がその程度。ね、貴方待つのも松のうちだとこういう、ね。昨日はいつもよりも十五分ばかり早く目覚ましのおかげを頂いたから私がもちょっと、もちょっとま一眠りしていいなと一眠りせんでも、もちょっと布団の中に居ってもいいなとこう思うた。その途端に頂いた。ですから十分十五分間早すぎるのじゃない、その十分十五分間、いつもより例えば私はここへ三時半から四時の御祈念を待つ訳なんです。
その待つ間が何時も私は有難いと言うて居る。それが三十分よりも四十分間有難かった方がいいじゃないか。ね、いわゆるその待つ時間そのものも有難い、待つそのものも信心なんだと。ね、貴方待つのも松のうちだと。勿論ここでは松といやあ信心、合楽の信心、又私共の頂いて居るいわゆる松の信心という風に何時も言われますから、ね、それも信心だとこういうわけなんですが、そういう様なことをね、が、例えば絶えず私共の耳に響いて来て居る。それを私の心でキャッチして居る。
それが毎日毎日不思議で不思議でたまらんという様な私は事になって来るのだとね。ね、その心はね、誰でもではキャッチ出来ない。やはり心を大切にする人の上にです、そういう働きがあるんだと。私は大切にしてさ程して居ると思われんけれども、やはりその思うて居ることは何時も自分の心である。今朝の御理解なんかにもその反省を皆さんに聞いて頂いておる訳なんですけれども、まあ大抵美しゅうなったごとあるばってん、こげな汚い心が私の心の中に有るのだと分からせて頂いてそれに又取り組んで行く。
教祖の神様はその様なお方であったであろうとこう思う。何時も絶えずがこれで済んだとは思いませんという姿勢である。しかもどの様におかげを受けられても思い上がられることなくそれこそどういうおかげを頂かれてもそれはまだ「今中」であるという頂方である。ね、私共の信心がそういういわば方向に姿勢を向けられて行かなければならん。そういう様なお話をさせて頂いて後にです。
昨日の朝のお夢を皆さんに聞いて貰ったんです。今朝はもう凄いお夢を頂いた。それがね、合楽のその今迄川がね、そのとてもその倍ぐらいに広うなって行きよる。その為にその堤防がこう壊されて、スコップを使ってずうっと川が広うなって行きよる。広うなって行く所には棒杭がずっと打ち込まれていっておるという様なお夢であった。それが菊栄会の方達が中心になってそれも真っ裸で一生懸命そのやって居る。真っ裸と云うても、まあそのサルマタ一つとか、フンドシ一つという様な、真っ裸である。
中でも、もうそれこそもう実に印象的だったのは、高橋さんがですね、真っ赤なフンドシをして、そしてもう向こうの方の砂浜の方を、なんか伝令の様にして一生懸命あっち走りこっち走りしよんなさる所であったが、どういう事じゃろうかというて、まどういう事じゃろうかと言うて、まあ結局はこういう事であろうと言うてま、お話をした事ですけれどもね。確かに合楽のお恵の水が流れる川が、例えば今まで五間幅であったなら十間幅に広がって行きよる。
その広がって行くときにはスコップが使われてとっとがまたそこに印象的に私は残って居るのは、そのスコップをこういう風にして使うんですけども、スコップは反対にして使うですね、下の泥をこうやってする時には。こう向けずにこうに向けてスコップで下の方こう掘り下げて行きよる。そすと私はね、丁度魚釣り針の様なものを持ってその堤防の上からこうやってその棒杭の打ち込まれて行くのをこうやって私が音頭を取って居る訳ですね。あのうこう引いてこう胴突きをする様な風にして。
私竿を持ってこうやって上げて行きよる。もうそれがね、上げて下ろす時にはもうどしっともう一突き一突きが決まって行きよるという手応えがこの竿に響いて来るといった様な感じのお夢でした。これは私がその竿というのは、いわゆる心ということは一番大事なものだという事なんです。ね、自分の心一つでこれを決めて行きよる。という風にまあ感じた。それから次にはね、やっぱここの御信者さん方みんな居るんです。
やっぱりあの菊栄会の方達が、その何人も居りましてね、なんか料亭ともまあ大きなキャバレーかなんかといった様なとも、どっちともつかん様なお家に、まあ飲みに行ってるようでした。そしてもう飲んで仕舞うてから、いつの間にかその人達が皆んな居なくなってしまうてですね、逃げ散らかしておるという感じで、それで私一人が取り残されて居るわけなんですよ。
そこの女中さん達がよっぽど私が偉い人という風に言うちゃったんでしょう、まあ大事にしよるんですよ。けどもこれば逃がしたならばこりゃもう皆がごと逃がして仕舞うからこれだけは逃がしちゃならんという風に警戒しちゃるところです。私がちょいと外へ出たいから下駄を貸して呉れと言うたらその下駄ども出しよったら逃げられちゃいかんと思うて「はあそうですか」と言いながら私の下駄は出さずにスリッパとも靴ともつかん様な物を出して呉れておるといった様なお夢じゃった。
その話を昨日私美登里会の時にさして頂いたら、今朝から熊谷さんが「先生、あのお夢の話を聞かせて頂いて何かゾォッとした」とこう言われる。ね、例えば「私共がおかげを受けて居る。先生が言うならその保証人に立って頂いて居る。今度の幹三郎ちゃんの病院行きなんかはまるきりなにかその抵当に幹三郎ちゃんが引き取られて居られる様な気がする。私共はほんとに真一心を捧げて。
いわゆる幹三郎ちゃんを受け出さなければ相済まん。あれが親先生のお夢に現れて居るそれじゃなかろうかと私は思うた。これが人みごくうどもなられたら大変だと思うて昨日は一日そのことを考えた。」と言う今朝からお届けがあっとりました。成程ほんにそういう事かも知れないなと私は思うた。まあ、あれを思いこれを思い結局は私共の心一つでおかげを頂いて行く。
まあこれは十三日会という神の願いが成就していく事の為に私共が神様の御行為に添い奉ろうとする十三日会の日に今ここへ「天地書附」が御本部から着いておりました。あれは百年祭の時に配られ頂きましたものですけれども、その後に新しい御信者が沢山増えられて居りますし、又拝ませて頂く対象にあれを残って居ったら頂きたいということを前から願い出ておりました。
それがまあ半分こちらの願いの半分の数だけれども送るというて通知が来て居ったのが今日たまたま着いておる。いわゆる「天地書附」なのである。成程十三日会の日にいわば「天地書附」が着いたと。これが私共の焦点でありこうあって呉れというのが神様の願いであろう。神の願いというのは何と言うても私共の心を一番大事にさせて頂こうという、そこのところに姿勢を置かなければいけない。ね。
そこから私は、ね、その心にです、例えば漫画に現れておることじゃないですけれども、何と言ったってね、男は心だよと言っておりますけれども、やっぱり器量が悪かったらいけん。心が良いなら器量も又可愛らしいと、いうものでなからにゃならんのですけれどもです、ね、心ばかりではいけない。だから心がおかげを頂いていったらなら、健康のことも人間関係の事も経済の事も健康の事も、それにかげの形の様に伴うて来るというのが信心なのですから。
そういうおかげも兼ね揃えて頂いていかなければならないのです。それには何と言うても中心になるものは心だ。心をいよいよ大事にしていこう。特にいわゆる今日そこのところを「和賀心」だとこう言うて居られる。そこで「和賀心」とはどういう様なあり方にならして頂いたら頂けるものかといった様な事を何時も研修させて頂くわけでございますね。どうぞそういう所に焦点を置いて研修されるといいと思います。
どうぞ。